今年も行ってきました!
![]()
2007年12月25日から27日、18名の参加者を得て青年部沖縄ツアーが実施された。初日は沖縄県教組の山本副委員長、2日目は沖縄平和ネットワークの伊波さんにガイドをお願いし、普通の観光では決して味わえない沖縄の過去と現在を学び、かつ沖縄の美しさにふれるツアーとなった。
<嘉数高地で考える>
那覇空港に到着、一行は宜野湾市の嘉数高地に向かった。1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄本島上陸後、日本軍司令部の首里を守るため造られた嘉数高地の陣地に対し、鉄の暴風と呼ばれた砲爆撃を加えた。今も銃弾の痕が生々しいコンクリートのトーチカが残っている。日本軍は砲撃の止む夜になると爆雷や手榴弾を持って反撃し、一進一退の攻防が2週間以上も続いた。
この戦線で日本軍は六万四千名が戦死、主力部隊の約8割を失った。ここに建つ3つの慰霊碑の中に「嘉数の塔」という地元住民の慰霊碑がある。嘉数集落では多くの住民が弾薬運搬や炊事などで日本軍に協力していて、戦闘に巻き込まれ半数以上が戦死している。 しかも、軍民混在の地下壕の中では、日本軍による壕追い出し、食糧強奪、幼児殺しが続発し、さらに犠牲者を増やす原因となったとの説明を受けた。
(左)嘉数高地ではすでに桜が咲いていた
(右)普天間基地と周りの住宅地
<アメリカの「ダブルスタンダード」>
嘉数高地頂上の展望台からは、目の前に普天間基地が見渡せる。宜野湾市の中央部に市域の26%を占める基地があるため、市民生活は今も困難を強いられることが多い。
普天間基地へのアメリカ軍機の進入路が民家に異常に近いのを見て驚いた。アメリカ本土では民家と基地の距離が50km離さないと基地は造ってはならない国内基準があるとの説明に、改めてアメリカの民主主義とは、自分たちにのみ都合のいい考え方だということを確認した。
<3つのガマ>
今回のツアーの特徴は3つのガマ(避難壕)。 初めに行ったチビチリガマでは、アメリカ軍の攻撃から避難した住民が「戦陣訓」を守り敵に捕まるまいとして、自らの手で家族の命を絶った事実が語られた。しかし、同じ村内のシムクガマでは、避難した住民の中にいたハワイへの移民経験者2人がアメリカ軍と交渉して、全員無事に救出されることになったとの説明を受けた。
「シムクガマ」で説明を聞く
ガイドの山本さんは、この2つのガマの違いは、「自分の頭で考え行動したのと、こうあるべきだと決めつけ思考停止に陥ったことによる違い」だと訴えた。
最後に入った、ヌチシヌジ(命をつないだ)ガマはきれいな鍾乳洞で、避難した住民がほとんど助かっただけでなくガマの中で男と女の赤ちゃんが1人ずつ生まれたという。まさに、ヌチシヌジである。
<ヌチドゥ宝>
2日目は、フェリーで伊江島に渡り、地元の村議にも案内していただき島内を回った。アメリカ軍の土地収奪に対して非暴力で闘った阿波根昌鴻についての話を「ヌチドゥ宝の家」で聞き、さらに城山の頂上からは、アメリカ軍の飛行場や施設が島を占拠している状況を見た。島の北東部にあるアハシャガマには「防衛隊が持ち込んだ爆雷によって村民約百五十名の尊い命が失われた集団自決地である」との伊江村長名のプレートがあった。午後はフェリーで本部港に戻り、備瀬の福木並木や美ら海水族館で沖縄の美しさを堪能しホテルへ戻った。

(左)備瀬の福木並木、夏でも涼しいとか
(右)美ら海(ちゅらうみ)水族館のジンベイザメ
<教科書検定問題>
沖縄戦での集団自決に関して日本軍の強制を削除した教科書検定に対して、「沖縄の人は怒っている」とか「沖縄の声が文科省を動かした」との報道があるが、山本さんは「事実に反する教科書に沖縄だけでなく全国の人が怒って、それが文科省を動かしたということ。沖縄を特別視してはいけない。」と語る。
26日、集団自決について「日本軍による強制」は認めず「関与」と文科省の検定審判断が出たが、これに対して、27日の地元紙は「怒り」「史実をぼかす」と書いた。3日目はそれぞれが那覇市内でのショッピングや観光を楽しみ、羽田へ向かった。
【参加者からの感想】
「昨年に続き2度目の参加でしたが、昨年とは違った沖縄の見方ができた。沖縄に関する課題への考え方が深まったと思う。」(高崎支部:富田さん)
「初めて参加しました。3日間天気にも恵まれ充実した研修となりました。沖縄に暮らす人々の思いに触れ、沖縄に関わる問題の複雑さを知ることができました。また参加させていただきたいと思います。」(北群馬支部:池田さん)
伊江島・城山の頂上にて。後ろは東シナ海